時代とともに地域とともに歩む

待矢場両堰土地改良区 

〒373-0063 群馬県太田市鳥山下町402-1

土地改良区の概要

土地改良区とは

 土地改良法に基づいて設立される農業者の組織です。
 農業生産を行う上で欠かせない用水・排水施設の整備や管理、また農地の整備などを行っています。
 具体的には、農業用水施設(水路や水門)の点検や補修をしたり、水路のゴミを取り除いたり、水門を操作して用水を送ったり、排水をながしたりするような仕事を行っています。

  

 全国にある水路をつなげると約40万km(地球10周分)になるといわれています。その水路を管理しているのが、全国に約7000団体ある土地改良区と農家の方々です。
 近年では農地と住宅地の混住化が進み農業用水路は住宅地の雨水や排水、防火用水など、農業以外にも利用される機会が増えてきました。
 また、自然を美しく保持し地域の景観を良くする役割も担っています。このように、農業用水路や農地は単に農作物の生産の場としてだけでなく、地域の中でいろいろな面に関わっているのです。
 こうした水路の役割、水の役割を守り、地域の自然環境を守っていく一端を土地改良区は担っています。


待矢場両堰土地改良区の概要

 待矢場両堰土地改良区は、関東平野の最西北、東京から100kmほどのところに位置し、利根川と渡良瀬川とに挟まれた東西25km・南北15kmの間にある水田4,000haを受益地域としています。



 関係市町は太田頭首工の位置する桐生市、受益地を有する太田市・館林市・足利市・大泉町・邑楽町・千代田町の4市3町であり、現在の組合員数はおよそ8,000人、総代数105人、理事15人、監事3人、事務局職員13人により土地改良区の管理業務を行なっています。



管理施設の概要

国営事業による改修以前においては、幹線施設(分水堰等)の操作管理を地先の関係農家代表に委ねていましたが、現在では土地改良区職員が直接管理をしており、頭首工からの遠方操作(一部幹線のみ)また、中央管理事務所(待矢場両堰土地改良区事務所内)の水管理システムによる施設の監視・操作を行い、用水調整と合わせ排水管理も行っています。

【 受益図 】

  


主な施設紹介    水管理システム

待矢場両堰土地改良区の歴史

 待矢場両堰土地改良区の現取水工『太田頭首工』の造成(国営渡良瀬川沿岸農業水利事業ー1971年~1984年ー)以前の取水口は、現頭首工辺りに『待堰』、さらに約3km下流に『矢場堰』というふたつの堰がありました。



 ふたつの堰が開削された年代は不明ながら、いずれも1500年代、あるいはそれ以前の開削とも伝えられています。大河川直結の用水開発は洪水などに対処できる取水口管理が可能な財政力、政治力、技術力が伴わなければならず、そのことでは安定した政治力の管理下にあったものといえます。
 その時々の領主により水方普請役等がおかれ維持管理を行なってきましたが、1682年(天和2年)から幕府直営となり、諸費用は幕府支弁となりました。

 時代は移り、1871年(明治4年)には関係191村の民費負担による管理となりました。
 ふたつの堰の管理体制は当時別々の管理であったため、頻繁に水争いが起こっていました。しかし1877年(明治10年)の大旱魃により勃発した大規模な水争いを契機に群馬県が仲介となり両管理組合は和解をし、『待矢場両堰水利土功会』として一元管理をしていくこととなりました。

 その後、『待矢場両堰普通水利組合』へと改組をし、1951年(昭和26年)に現在の『待矢場両堰土地改良区』に組織変更をし、施設の管理を実施しています。

 また、渡良瀬川の水源山地の荒廃による水量の枯渇を原因として、年々用水不足となり1951年(昭和26年)から1959年(昭和34年)にかけて、『県営渡良瀬川右岸土地改良事業』により待堰取水樋門の改築、伏流水及び地下水を補給水源とする集水暗渠工、水路改修等の大規模工事が実施さました。これらの工事をはじめとして、20世紀の半ば頃から数多くの維持補修を実施してきましたが、施設全体にわたる改修整備は実施されず、施設の老朽化・河床変動による不安定な取水・配水状態は国営事業(太田頭首工)完成まで続いていました。

  
※写真右から「待取水水門」・「矢場水門と洗堰」・「矢場自然取水工」