太田頭首工

概要
太田頭首工は、渡良瀬川取水の旧堰、待堰・矢場堰・三栗谷堰の3堰を1ヶ所に合口し、永久的に安定した取水が確保されるような築堤を構築しようとしたもので、国営渡良瀬川沿岸農業水利事業で築造された3頭首工(大間々頭首工・太田頭首工・邑楽頭首工)の中では最大規模の頭首工です。
 この頭首工は、①河川の状況、②受益地からみた位置、③必要な取水機能の可否、④堤体等の構造上の安定性の確保いかん、⑤維持管理の利便性等を総合的に検討し、設置場所を、待堰下流70m地点(右岸、桐生市広沢町、左岸、桐生市境野町)としました。この地点での左岸側は、高水敷を整備し、右岸側は、全可動型、堤長134mの堤体部と、毎秒21.03㎥の取水能力をもつ取水門を設け、さらに提内地に粗粒沈砂池を設け、沈砂池から排砂管を渡良瀬川本川に向けて設け、排砂する方式としました。
 堤体には、35mの洪水吐ゲート3門と、20mの土砂吐ゲート1門及び魚道を設けています。河床には構造物と自然河川との取付けをなじみ良くし、構造物を流水による災害から保護するため、十字ブロックによる護床工を施しました。また、右岸側から最終橋脚まで、管理橋(有効幅員3.5m)を架設し、保守並びに維持管理に万全を期しました。
 さらに附帯施設として、管理事務所を新築し、管理用の機器を設備し、保守管理を行うこととしました。なお、取水操作は、遠方自動制御を原則とし、場合により手動及び機側での操作を可能としました。
諸元


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旧堰の歴史

待堰、矢場堰
 待堰・矢場堰の起源は足利氏の末世、元亀元年(西暦1570年)に新田金山城主由良信濃守成繁、館林足利城主長尾但馬守顕長、両城主の命を受けて築造したもので、6,000余町歩の取水地点となっていました。以来、水方普請役を置いて維持管理を行ってきましたが、元和元年(西暦1681年)館林領主徳川綱吉が将軍を継ぐことになり、一時奉行がいなくなり用水の維持か困難となっていましたが、天和2年幕府直営となって、諸費用は農家に賦課しなくなりました。その後、明治元年館林藩の管理となり、明治4年からは関係町村民の経費によってまかなわれるようになりました。当時の関係町村は、191ヶ村であったと言われています。
 明治10年の夏、未曾有の大干ばつにみまわれ、両堰間で水争いが起こりました。これは記録に残る大騒動となってしまい、これを憂いた県令のあっせんによって両堰は合併し、待矢場両堰組合が設立されました。明治11年各川筋から総代3名を公選して戸長制により管理するところとなり、明治23年には組合条令に基づき待矢場両堰普通水利組合と改称し、法律に基づく最初の組合として発足しました。
 施設は、矢場堰の牛枠等を使っての自然取水堰に対し、待堰は大正年間に入り堰の改修が余儀なくされ、最新式のコンクリートによる堰に改修されたが、これは当時としては画期的なものでした。その後、昭和34年県営事業により大改修を行ってきましたが、両堰は、河川勾配が特に急でミオ筋がその都度変わるため、簡単な補修程度では取水が、容易にできない状況となっていました。


【 待 堰 】


【 矢 場 堰 】
三栗谷堰
 三栗谷堰は元亀元年に築造されたもので、明治維新前は市場堰とも言われ、渡良瀬川四堰(待堰、矢場堰、借宿堰)の一つでした。旧館林藩に属し、その水配区域は足利市山辺地区の、600余町歩でありました。
 管理は明治23年三栗谷普通水利組合を組織し、足利梁田郡長の管理となり、その後幾多の変遷を経て、昭和27年土地改良法の施工に伴い土地改良区を設立し、同時に維持管理をすることとなりました。
 一方、施設は渡良瀬川の上流、足尾連山に於ける明治中期以来の銅鋼業の発展に伴い流域の保水力が著しく低下し、一旦干ばつとなれば本流は涸渇し、豪雨となれば濁流と化して被害は甚だしく、長年その惨害に苦しんできました。そのような状況のなか昭和11年から昭和42年の31ヶ年を費やして、樋門、集水渠、用水路等の改修を行うとともに、併せて土砂止工を取水樋門前に設置して土砂の流入防止をはかり、これが現在の三栗谷堰となりました。
 なお、補給水源として第1次及び第5次の県営事業により、第1集水渠並びに第2集水渠を設け、渇水時の不足水量を集水補給しています。


【 三 栗 谷 堰 】

国営渡良瀬川沿岸農業水利事業(昭和46年~昭和59年)

事業の目的
 本事業地域は、群馬、栃木両県の(当時)4市5町2村にまたがる渡良瀬川右岸に展開する扇状地及び台地部で、農業用水施設の老朽化と河床変動による取水困難とにより、施設の維持管理費が増大しているとともに、かんがい施設のない畑地にあっては農業経営が不安定となっていました。
 本事業は、取水の安定確保と農業用水の水利調整を容易にするため合口計画を行い、施設の改善にあわせて草木ダムによって増強される水資源の合理的高度利用を図り、内部の農業基盤整備事業を行って農業経営の近代化を推進し、農業生産性の向上と 地域開発に資することを目的とするものです。
事業計画の要旨
 前記事業目的に従い、(当時)水田9,034ha、畑地860ha、計9,894haに対するかんがい用水最大29.45㎥/sを渡良瀬川の3地点より取水し、かんがいするものとし、取水地点には、各々頭首工を築造して取水の安定を図る。
 岡登、藪塚用水は、高津戸橋上流地点に大間々頭首工を新設して取水し、待堰、矢場堰、三栗谷用水は既設待堰地点に太田頭首工を新設し取水する。また、邑楽東部、板倉用水は既設邑楽堰地点に邑楽頭首工を新設し取水する。
 なお、これら国営事業に係る主要工事計画は、次のとおりでです。

太田頭首工 工事
 太田頭首工の土木工事は昭和51年11月に着手されました。施工方法の概要は、施工に先だち左右両岸に資材運搬用の仮設道路を設け、河川内工事は豊水期を避けて11月~5月までの渇水期に渡良瀬川を半川締切で行い、第1期として右岸側本体工並びに左岸護岸工を施工し、第2期は左岸側本体工を施工、第3期は右岸側護岸工を施工、河川外工事として管理事務所の新築及び粗粒沈砂池、排砂樋管を施工し、昭和54年3月土木工事は完了しました。
 また、本川ゲート、取水ゲート、粗粒沈砂池ゲート並びに電気設備及び管理橋工事は、土木工事と平行して製作据付を行ない、同時に完了しました。